古我邸 Kamakura Heritage Koga Residence

古我邸について

History of Kogatei 古我邸の歴史

鎌倉に呼び込まれた西洋文化

古都鎌倉といえば、鶴岡八幡宮や高徳院の大仏といったいわゆる鎌倉時代に由来する神社仏閣が有名ですが、鎌倉独自の文化を知る上では、大正から昭和初期にかけて建てられた西洋建築(洋館)の存在も大きな特徴のひとつです。

鎌倉に西洋文化が呼び込まれたのは、幕末の安政年間、日米修好通商条約をはじめとして諸外国と締結したいわゆる「安政の五カ国条約」により、横浜が外国人居留地となったことがはじまりです。
当時、外国人が日本国内を自由に活動できる範囲は、開港場から半径十里(約40キロ)四方まで。その範囲にあった鎌倉は、避寒、避暑、海水浴ができるリゾート地として居留地の外国人たちに注目されていきました。
1889年(明治22年)に横須賀線が開通すると、さらに皇族や華族、富裕層が競うように西洋建築の別荘を建て、鎌倉に一気に別荘文化が開花します。

こうした時代の流れの中、まさにこの「古我邸」も1916年(大正5年)三菱合資会社(後の三菱財閥)の専務理事兼管事をしていた荘清次郎の別荘として、実に15年の歳月を費やして完成しました。
設計は、旧三菱銀行本店や旧丸ノ内ビルディングの設計を行った桜井小太郎。
桜井小太郎は、ジョサイア・コンドル(1877年(明治10年)に来日、日本の近代建築家を数多く育成し、鹿鳴館なども設計)の弟子として、丸ノ内のオフィス街開発に尽力した建築家です。

日本の近代政治に深く関わった建物「古我邸」

別荘文化の広がりとともに鎌倉は洋館が立ち並ぶ美しい街へと変貌を続けていましたが、1923年(大正12年)相模湾沖を震源とした関東大震災により街に甚大な被害を受け、建物の九割が倒壊、洋館もその多くが失われてしまいました。
しかし、「古我邸」の建物の損壊は皆無で、震災をきっかけに東京から鎌倉へ移り住む政治家たちを受け入れることになります。
「古我邸」には、第27代内閣総理大臣を務めた濱口雄幸や、第34、38、39代の内閣総理大臣を務めた近衛文麿が三菱から建物を借り受け、別荘として利用していたという記録が残っています。

その後、日本が第二次世界大戦へと傾斜していく1937年(昭和12年)に日本土地建物(株)の経営者であった古我貞周氏が法人資産として「古我邸」を取得します。
1945年(昭和20年)の敗戦後、この「古我邸」もG.H.Qに接収され、将校クラブとして使われていた時期もありました。まさに日本の近代政治に深く関わった建物といえるでしょう。

モータースポーツのパイオニア”バロン古我”

戦後日本の経済成長、特に自動車メーカーの発展は著しいものでしたが、貞周氏の息子、“バロン古我”こと古我信生氏は、日本のモータースポーツのパイオニアとして国内外に知られています。
信生氏は単身欧州の自動車レース界にアタックをかけ、レーシング・ドライバーとして活躍、1959年(昭和34年)に開催された日本初の本格的なラリー「日本アルペンラリー」で浜島輝元氏と共にプリンススカイラインを駆り優勝します。(当時の写真やエンブレムは資料として一部を展示しています。)
信生氏の活躍は国内のみならず、プリンス自動車(現日産自動車)の契約ドライバーとしてベルギーのリエージュ・ソフィア・リエージュラリー(61、62年)に参加したほか、ホンダからF1開発プロジェクトへの参加を請われ、1965年にはそのテストグループのメンバーとして開発に携わりました。西ドイツ、ニューブルックリンで行われた82時間耐久レースでは、ホンダS600を駆りクラス優勝を遂げています。
レーサーとして第1線で活躍しながらも、1963年(昭和38年)には、鈴鹿サーキットで行われた4輪レース初の日本グランプリで審判長を務めました。
「古我邸」の前庭には今でも、レーシングカー運搬用の通路が残っていますが、信生氏はこの敷地内でレーシングカーのチューニング・組立を行い、レース会場に向かっていたそうです。

2005年(平成17年)に信生氏が他界されたあとは、夫人が建物を維持してきましたが、築100年を迎える建物の老朽化は深刻で、根本的な修復が必要になりました。
「古我邸」は鎌倉三大洋館の中で唯一、一般非公開の洋館でしたが、これを契機に、古我家の皆様のご協力により、地元の皆様、観光で訪れる皆様が気軽に足を運べるような施設に生まれ変わります。
古き良き文化を残しつつも、常にその時代のエッセンスを取り込みながら独自の進歩をしてきた鎌倉の地、「古我邸」は鎌倉スタイルを発信する寛ぎの場所として、新たな一歩を踏み出します。
これからの「古我邸」にどうぞご期待ください。