鎌倉独自の文化を知る上で、大正から昭和初期にかけて建てられた
西洋建築の存在も大きな特徴のひとつです
鎌倉独自の文化を知る上で、
大正から昭和初期にかけて建てられた
西洋建築の存在も大きな特徴のひとつです
鎌倉独自の文化を知る上で、大正から昭和初期にかけて建てられた
西洋建築の存在も大きな特徴のひとつです
鎌倉独自の文化を知る上で、
大正から昭和初期にかけて建てられた
西洋建築の存在も大きな特徴のひとつです
鎌倉における西洋館建築のきっかけとなったのは、江戸時代末期に日米修好通商条約をはじめとして諸外国と締結したいわゆる「安政の五カ国条約」により、横浜の居留地に住む外国人が、避寒、避暑、海水浴ができるリゾート地として鎌倉に訪れるようになった事にはじまります。
その後、1889年(明治22)にJR横須賀線が開通すると、皇族や華族、富裕層が競うように洋風建築の別荘を建てたことで、鎌倉は一気に西洋館が建ち並ぶ美しい別荘地となりました。
古我邸もこうした時代の中で、三菱合資会社(後の三菱財閥)の専務理事兼管事をしていた荘清次郎(しょうせいじろう)の別荘として、旧三菱銀行本店や丸ノ内ビルディングの設計を行った桜井小太郎が実に15年の歳月を費やして1916年(大正5年)に完成させました。
桜井小太郎は、1877年(明治10年)に来日し、日本の近代建築家を数多く育成したジョサイア・コンドルの弟子として、丸ノ内のオフィス街開発に尽力をした建築家です。
このようにして、別荘文化の広がりとともに発展した鎌倉でしたが、1923年(大正12年)に相模湾沖を震源とした関東大震災により街は甚大な被害を受けました。
しかし、この震災でも古我邸の損壊は皆無で、東京から鎌倉へ移り住む政治家達を受け入れる事になります。
古我邸には、内閣総理大臣を務めた濱口雄幸や近衛文麿が三菱から建物を借り受け、別荘として利用していたという記録が残っています。
その後、日本が世界大戦へと傾斜していく1937年(昭和12)に日本土地建物(株)の経営者であった古我貞周氏が取得して以来、鎌倉では「古我邸」という呼び名で親しまれてきました。
1945年(昭和20年)にはG.H.Qに接収され、将校クラブになった時期もあり、その時々に日本の歴史の見てきた建物の1つと言えます。
そして、“古我”という名を有名にしたのは、貞周氏の息子で日本のモータースポーツのパイオニアとも言える古我信生氏でした。
自らも、2輪、4輪のレーシング・ドライバーとして活躍していた信生氏は、1959年(昭和34年)に東京〜軽井沢〜上高地〜諏訪〜八王子〜東京の約1000㎞間で開催された日本初の本格的なラリー「日本アルペンラリー」で浜島輝元氏と共にプリンススカイラインを駆り優勝しており、当時の写真はインテリアとして一部を展示しています。
信生氏の活躍は海外でも目覚ましいものがあり、プリンス自動車(現日産自動車)の契約ドライバーとしてベルギーのリージェ=ソフィア・ラリー(61、62年)に参加したほか、ホンダからF1開発プロジェクトへの参加を請われ、1965年にはそのテストグループのメンバーとして開発に携わりました。
そして、1965年には西ドイツ、ニューブルックリンで行われた82時間耐久レースでは、ホンダS600を駆りクラス優勝を遂げています。
レーサーとして第1線で活躍しながらも、1963年(昭和38年)には、鈴鹿サーキットで行われた日本グランプリで審判長を務めた他、東洋工業の欧州レースにも参戦するなど、日本のモータースポーツ界にもたらした影響は計り知れないものがあります。
このような歴史をたどりながら大切に維持されてきた古我邸ですが、築100年を迎え建物の抜本的な補修が必要となり、2015年に改修工事を経てフレンチレストランへと生まれ変わりました。
Tel | レストラン予約 | 0467-22-2011 (受付時間:11:00~21:00) |
---|---|---|
ウェディング専用 | 0467-22-2012 (受付時間:10:00〜18:00) |
|
FAX | 0467-22-2442 |
Restaurant Information